大阪府出身。府内の雑貨メーカーと、広告などの制作会社という性格が異なる二つの会社勤務を経て、2019年から和歌山市に移住。ものづくり企業や、地域おこし事業などのコンサルティングをフリーランスで行う。気さくな人柄で、仕事を通じて一次産業から行政まで幅広く付き合うかたわら、地元銭湯の手伝いをしてアルバイトの学生らとも交流している。
人間らしい生活がしたかった
高橋さんは大阪で9年間働いたのち、制作会社で担当していた事業部署の廃止をきっかけに移住を検討。自分を変えたかったのかもしれない、と当時を振り返る。
「人間らしい生活がしたかった。仕事にめちゃくちゃ追われるんじゃなくて、美味しいものを食べて、家族と笑いながら過ごしたいなと思って。大阪にいたころは遅くまで仕事もしたし、会議でどうやったら売り上げを出せるかを経営者に説明したりとか、そういう暮らしやった。かなり疲れていたし、偉そうにもなっていたから環境を変えることで自分を変えたかったんやと思う」。
和歌山県の制度を利用した移住体験では、南部の古座川町や由良町にも滞在した。しかし、パートナーの亜由美さんとも相談した結果、大阪や実家にもアクセスが良い和歌山市に移住することを決めた。和歌山市は、南海沿線にある実家から電車で一本、40分ほどで行ける。遠いというより、距離的にも文化的にもむしろ近いという実感だ。
マラソン好きの高橋さんにとって、和歌山市内はジャズマラソンの聖地でもある。年に一度の楽しみだった景色は、いまや日々のランニングコースの一部となった。自然環境の中でトレーニングをしてみたいという思いが少しずつ憧れへと変化し、移住の原動力の一つにもなったという。
移住して半年くらい経つころ、自分の役割がわかってきた
「フリーランスになるとは思っていなかった」と高橋さん。しかし先輩からの後押しや、転職のタイミングもあり、これまでの経験や知識を生かす形で起業。現在は、県内のものづくり企業や、地域おこし事業のサポート、WEB制作などを手掛ける。
創業当初は大阪が主だった仕事先も、今では多くが和歌山のものになった。漁船に乗せてもらったり、農家さんのところを訪問したりなど大阪時代には決してできなかった体験も多い。また、起業してすぐに生じた新型コロナウイルスの蔓延は、高橋さんにとって自分や、仕事のあり方を見直す機会となった。
「コロナが来たことで、自分の役割がわかってきたところもありました。お客様が事業をどうやって継続させていくかっていうのを一緒に考えさせてもらえるケースが多かったから、事業主としての覚悟もできたし、自分がやってきたことで周りの人のお手伝いができるという実感もすごく湧いた。あと、創業当初って大阪に週2、3回は行っていたんですよ。それが行かなくなった。行かなくても十分できるっていう発見がありました」。
郷に入り、変化した価値の捉え方
移住してから、高橋さんの休日の過ごし方は大きく変わった。商業施設を回ることが多かった大阪時代と違い、現在は山や川、海に足を運ぶことが多い。
「和歌山市って白浜まで一時間くらいで、川に行きたいと思ったら紀美野町も行けるし、港町もあるから美味しい魚もある。いい意味であまり浪費しなくなったと思う」。
浪費がないのは、遊びの面だけではない。都会で生活していたころには身だしなみにかなりお金を使っていたが、和歌山ではそれが減った。「大阪時代を振り返ると自信がなかった。そういう鎧をかぶらないと人から弱く見られると思っていた」と、高橋さん。現在は自己表現を心掛けるようになり、もっと人間性で勝負しようと思うようになった。
自分で看板を背負って勝負するフリーランスという働き方は、ある意味で高橋さんらしい選択だったのかもしれない。
「和歌山は大阪と比べると会社や仕事が少ない。だから会社員として移住するのは少ししんどいかな。フリーランスのほうが自分は生きやすい。社会保険とか退職金とか年金制度とか、全部求める人には合わないかもしれないですね。決意とバイタリティが求められる」。
この地に息づく地場産業を盛り上げたい
雑貨メーカーに勤めていたころにも和歌山県にさまざまな製品の発注を行っていたという高橋さん。現在の仕事を通してより深く和歌山のものづくりや一次産業に関わることで、ものづくりが和歌山県全体でまだまだ息づいていることがわかってきた。
「今後は地場産業に関わってものづくりの仕事を増やしていきたいし、自分がこれまでやってきた経験とか知識とかをつかって、そういう人たちにスポットが当たるような仕事をしていきたい。そうすることで雇用が生まれたり、僕らみたいな移住者が増えてほしいなとも思う」。
大阪から和歌山へ。地理的に見るとさほどの距離ではないが、高橋さんにとっては大きな決断だったに違いない。高橋さんが培ってきた経験と熱い思いが、これからの和歌山をより一層元気にしてくれるだろう。