
―和歌山県中部、太平洋に面する印南(いなみ)町。黒潮の恵みを受ける美しい海岸線と、のどかな田園風景が共存する。その街の高台でカフェ「Nico Cafe(ニコカフェ)」を営む小鮒さん。「料理で人に喜んでもらいたい」と大阪から移住。コロナ禍を乗り越え、今や地域にとって大切なお店となっている。小鮒さんのカフェ開業の経緯から現在、そして今後の挑戦についてお話を伺った―
スコットランドで出会った素敵過ぎるカフェ
「20代の時に、スコットランドへ語学留学に行きました。ようやく東京や大阪に、世界最大のコーヒーチェーン店の国内1号店が出来た頃です。『カフェ』が日本では一般的ではなかった時代。首都エディンバラにいた私は、石畳の通りに歴史的な建物が立ち並ぶ街並みがとても気に入っていました。その街の中に、赤くペイントされた外装が特徴のカフェがありました。中に入ると、ガラスケースにケーキやサラダ、パンが並んでいます。店内は奥に広く、窓から見えるエディンバラ城がとても綺麗で。私は、『こんなカフェが日本にあれば、素敵だろうな』と心の中で繰り返していました」と話す小鮒さん。このカフェとの出会いが、和歌山県印南町でのカフェ開業につながっていく。
多忙な日々の中から一歩踏み出す
和歌山県田辺(たなべ)市出身の小鮒さんは、これまで、県内だけではなく、東京都内・大阪府内で多くの職業を経験した。会社の事務職、洋服店の販売職、飲料メーカーのベンダー、メーカーの営業職、コールセンターのマネージャーなどだ。「仕事はいろいろやりました。メーカーに勤めていた頃は、納品先でFRP(繊維強化プラスチック)を技術者に代わって塗ったりしましたし、ベンダーの時は、県内を2トントラックで駆け巡りました」
そんな多忙な日々を「帰国後、カフェをやりたいという気持ちは心の隅にずっとあったんですが、やりたいことがたくさんありすぎて、なかなか踏ん切りがつかない状態でした」と振り返る小鮒さん。ただ、年齢を重ねる中で、「カフェを開業するなら、とにかく動かないと!」という気持ちが強まっていったという。
カフェ開業に向けて行動を開始した小鮒さんは、当時、大阪府内に住んでいた。最初は府内で店舗物件を探し始めたが、良い物件を見つけることができなかった。そんなある日、田舎の空き物件を紹介するテレビ番組を見ていた小鮒さん。「何気なくテレビを見ていたら、ここの物件が紹介されたんです。とにかく印象的だったのが、窓から見える海の景色。『印南町にこんなきれいな景色の物件があるんだ』と感動してしまいました」後日、担当者と内見をした小鮒さんは、「テレビで見たままの綺麗な景色と、カフェ兼住居としても使える間取りに、『もう和歌山に帰ってこよう。いろんな場所で暮らしてきたけど、最後はここがいい』と強く思った」そうだ。
仕事を続けながらの開業準備
カフェ開業の場所は決まったものの、物件購入契約にはじまり、改築(床・壁の張り替え等)厨房設備の導入、家具購入、引っ越しの準備、役場での手続きなどやるべきことが無数にあったそうだ。仕事を続けながらの開業準備は大変で、休日の度に和歌山に来る生活が続いた。開業資金の準備も進めたが、物件改築、厨房設備の購入には多額の費用が必要だった。「あの頃は、やらないといけないことが多すぎて、また、何をすればよいかわからない事も多く、がむしゃらに準備を進めている状態でした。一度、冷静に立ち止まって考えた時、誰かに相談してみようと思いたって、和歌山県の地方部局である西牟婁振興局を訪ねました」
県の担当者から、偶然、来庁していた和歌山県よろず支援拠点のスタッフを紹介され、小鮒さんは移住や開業に関する支援制度について相談。担当者から、「わかやま地域課題解決型起業支援事業」の紹介を受けた。これは、地域課題の解決に資する事業を始める際の資金をサポートする制度で、応募期限まであまり日がない状況ではあったが、小鮒さんは一気に事業計画書を書き上げ、申込を済ませた。無事採択された小鮒さんは、補助金に加えて、銀行からの資金調達も行い、ほぼ希望通りの改築・設備の導入を叶えた。
開業とコロナ禍
2019年12月18日。小鮒さんのカフェ「Nico Cafe(ニコカフェ)」がオープンした。和歌山県の食材をふんだんに使った「インド風チキンカレー」、「チキンクリーム煮」などを昼・夜に提供。看板・広告は出さずに、口コミでお客様に来てもらえるような隠れ家カフェを目指しての開業だった。ところが、開業した感慨に耽る間もなく、未曽有の事態に見舞われる。「開業間もなくして、コロナ禍となり、2020年4月に緊急事態宣言が全国に発出。1か月間はテイクアウトだけの営業でした」。3年以上に及んだコロナ禍で、小鮒さんは感染拡大防止と経営継続の両立を迫られることになる。「コロナ禍と開業が重なってしまい、大変な時期でしたが、開業準備において、補助金や融資を受けていたことで、心に余裕を持てたことは、せめてもの救いでした」
これまでのご縁から生まれた「看板メニュー」
禍福はあざなえる縄のごとし。コロナ禍で営業時間の短縮を余儀なくされるも、小鮒さんには新しいメニュー作りに取り組む時間ができた。そして試行錯誤の末、現在の看板メニューの一つとなるスコーンにたどり着く。「スコットランドに留学していた時、お気に入りのスコーンがあり、もともと興味はあったんです。でも、私自身は甘いものがあまり好きではなくて(笑)、それまではお店で提供はしていませんでした」
そんなある日、友人から「スコーンを焼いて販売したらいいのに」と提案された小鮒さんは、シンプルなプレーンスコーンを焼いて販売したが、あまり売れなかったそう。ただ、その後もたくさんの友人からアドバイスをもらい、イギリスの伝統的な食べ方で、スコーンを提供し始めた。イギリスでは、ティータイムにイチゴジャムとクロテッドクリームを添えてスコーンを楽しむ食習慣がある。クロテッドクリームは、脂肪分の高い牛乳を煮詰め、表面に生じる乳脂肪分を集めて作られるクリームで、その濃厚なミルク感と口溶けの良さがスコーンの美味しさを引き立てる。この”本格派スコーン”が評判を呼び、カフェの看板メニューとなっていった。
「スコーンを焼いてはどうか、クロテッドクリームを添えてはどうか、チーズを生地に混ぜてはどうかなど。たくさんのアイデアを友人からいただきました。これまでのご縁から生まれたアイデアで、友人達に感謝したいです」
開業から5年で、地域になくてはならないお店に
2024年12月に開業5周年を迎えた「Nico Cafe」。当初の昼・夜営業のスタイルは、地域のニーズに合わせる形で、朝・昼・ティータイム営業に落ち着いた。今では、小鮒さんのお店作りをサポートしてくれるスタッフもいる。8時にオープンすると、地元の常連客がモーニングを楽しみにやってくる。地域の野菜をたっぷり使ったサラダは、皿一杯に盛り上がっている。ランチタイムも賑わい、多くの人がスコーンをテイクアウトする。今や、そのフレーバーはプレーン、抹茶、紅茶、チーズ、チョコレートなど多種多様だ。スコーンには、地元農家の平飼い卵を使い、添えるイチゴなどのフルーツは和歌山県産。ティータイムにも、なじみ客が来ては、スコーンと小鮒さんとの会話を楽しむ。「自分の料理で人を喜ばせたい、元気にしたい」との小鮒さんの想いが、多くの人をカフェに集め、「Nico Cafe」は地域になくてはならないお店になった。
2020年12月には新たな出会いもあった。黒いパグ犬の「ニコちゃん」だ。犬の保護・里親探しをする団体を通じてカフェにやって来た。「あまり吠えたりせず、とても大人しいので、この子を目当てに訪れるお客様もいます。なにより、私にとって、大きな癒しになっています」と小鮒さんは笑顔で話す。
これまで通り、気持ちを込めて料理を提供し続ける
開業10周年に向けた意気込みや目標を小鮒さんに聞くと、「美味しいものを食べて、お茶を飲んで、海の景色を見て、ホッとして、明日も頑張ろうとお客様に思ってもらえるようなお店づくりを続けていきたいです。日々精進ですね。そして、忙しい中でも、私を含めたスタッフ全員が寛容であること、おおらかであることを心がけています。そういったことも、日々訓練だと思ってやっています。料理は作り手、運び手の『気』が味に表れてしまうので、一つ一つのことが『作業』にならないように、気持ちを込めて大切にしていきたいです」と答えてくれた。
移住を検討されている方へのアドバイス
「移住に向けて情報を集めたり、物件を探したり、がむしゃらに行動することも大切ですが、時にはふと立ち止まって考える時間を設けることも必要です。私もインターネットで移住に関する情報をたくさん集めましたが、ふと思い立って、相談に出向いた場所で、移住支援や開業の補助金に関する情報を得ることができました。『ふと立ち止まって考える』、『わからないことはすぐに聞く』は、カフェ営業でも有効で、スコーンのアイデアは、友人との何気ない会話で生まれました」と小鮒さんは話す。そして、「やると決めたら何があっても諦めないこと。働きながらの移住検討の場合、ついつい『多忙』を理由に、先延ばしになります。私のように、何がきっかけで状況が打開できるかわかりません。目の前にある機会を逃さないよう、『忙しい』を理由にチャンスを逃さないでください」
そんな小鮒さんは、今、新たな挑戦を行っている。スコーンの通信販売だ。「補助金申請でお世話になったわかやま産業振興財団の方からの紹介で、東京都内での県産品の販売会に参加しました。参加には、スコーンの成分表示や菓子製造免許の取得が条件で、カフェ営業もある中で、最初は『無理だ』とあきらめていたのですが、せっかくのチャンス。なんとか成分分析なども行い、販売会に参加しました。地元産のレモンピールを混ぜ込んだチョコレートスコーンがものすごく好評で、次は通信販売に挑戦したいと思っています」
― 「走りながら考え、考えながら走ってきた」—小鮒さんの移住ストーリー。訪れる人が「明日も頑張ろう」と思える場所であり続けるために、今日も創意工夫を重ねる。明るく元気なスタッフ、看板犬のニコちゃんとともに、Nico Cafe(ニコカフェ)はますます笑顔(ニコッ)であふれる場所に。スコットランド留学時に思い描いた理想のカフェ、そのカタチがここにある ―